昭和42年05月30日 夜の御理解
「信心は家庭に不和のなきがもと」と。どんなによい信心ができても、銘々の信心はできても家庭に不和であったら、それはもうばらばらと同じこと。あんたはあんたふうに、私は私ふうにと。ばらばらでは、もうそれは、いわゆるばらばらでは持ち上がらんと仰るその、いかに一家が皆信心しておると言うても、信心の方向というものが同じでなかったら、もうそれは不和のなきものと、信心は家庭に不和のなきがもとと仰る。
そのもう不和と同じこと。ですから同じ私は家庭の中が円満でなからなければならないかと言うとですね、家庭生活がおもしろくないですね。自分の主張自分の思う自分のよかごつばっかりというようなことでは。ですから本当にこの、中心になる人のあり方というか、ね、でなかったら場合によっては、まあなら子供なら例えば今日はあの、ちょうど栄四郎の友達が2人、草野から遊びに来ておりました。
2人とも小さい子ですから細かつどんばっかり、あんたどん選ってからお友達作ったばいのと言うてから、笑ったことですけれども小さいんですよね。メジロよりも大きいけれども2人とも小さい子でしたけども、中々家庭がいいだろうとこう思いました。2人の話を聞かせて頂いて、7時頃までおりましたから早よ帰らなもう心配する。もう明るいうちに帰さにゃと言うてご飯でも出してから帰しよります時。
私ちょうど食堂に行きあわしておりましたから。ご飯を頂きながら話すんですね、栄四郎君のところではテレビはどげなテレビば見よんのちゅてから片一方んとが言いよるですもん。僕は親孝行じゃけん、お母さんが見るちゅったら見るちゅってから栄四郎が言いよります。君んところは。僕んところはね、もう皆ね、同じものを見ると。例えば野球なら野球があると、皆、野球を見る。
もう話し振りがですね、本当にそうだろうように思えれるんですねうん。片一方は芝居見るっち言いよる片一方はテレビを、野球を見るというのじゃないんですね。それでお父さんは何をしなさる人っちゅうたら、少しばかり百姓をしておるけれどね農園をやっておるらしいんです。今度の雹で大分損害があったっちゅう様な話をしてるんですね。そしてその道楽でねつつじをお父さんがつくっておるっち言う訳なんです。
まあお父さんが言いよりなさるとでしょうね。まあ私が道楽でもつつじを作っとるといったようなことを。僕のお母さんはここの指出から来てあるらしいですね。指出の(くやま?)というお家らしいんですよ。で僕はこの辺をくわしく知っていると言うて、話しておりましたがその子供達のその、何気ないそういう話の中からですね、家庭の状況がこう手にとるように見えるような感じがいたしますですね。
本当に私家庭にこれは信心があってもなかっても、円満でなからなければならんのですけれども、どりわけ信心さして頂いておればですね、もういかに皆がしん、例えばですね私共方のように、一人だけ信心せんとはおりませんから、皆が信心しておりますけれども。信心しておってもですね、それが本当にばらばらでは駄目です。どんなに私を中心に力んだ所でですね、私の信心に皆が寄り添うてくれなかったら駄目です。
これはなら、信者の場合でもそうです。私の信心を中心にして、ね、いわゆるてんでんばらばらでは、それは例え、水があっても理屈は同じことということになる。力が揃わんのです。一番、私は勢が揃わなければいけないかということはですね、家庭の中にですね、例えばその、まあ問題も、まあもめ事とかですね、何かその、深刻な憎しみあいといったような、ことではなくてもですね、もう本当にこの家庭の中に。
例えばもうどんなことでも腹蔵なにしにですね、親と子がその兄弟達がですお話しし合えれるような雰囲気の、いわゆる円満さでなからなきゃいけないと言う事ですね。家内がどうしとるのやら分からん。子供達がどげな風なことをしよるのやらも知らん、ね。今日、子供がどこに行っとるかも分からん。そういうことではですね、そのことが絶えず心にひっかかってるんですよ、ね。
私は信心の有り難いと言う事が、有り難き勿体なき恐れ多きと言った様な、あのお神酒に例えられますけれども。確かにそうだと思うですね。お酒を飲む方はよう分かっておられましょうけれど、心に掛る事があったりです、引っ掛る事があったりですね、心配があったりですね、何かいらいらしておったらですね、絶対お酒が酔われんのですよ、ね。気分良うして初めて、はあ今日の酒はおいしかったと言うて。
一合飲んで二合飲んだがた酔うのですよ。信心の有り難さも同じことです、ね。信心のどんなに有り難くなろうと思うてもです、心に心配事があったり引っ掛る事があったりしておりますとですね、そのいくら飲んでもいくら飲んでも、それこそ飲めども酔わんと言う事になるのです、ね。そういう意味合いでも、私は家庭というものは、円満でなからねばいけないと。
「家庭に不和のなきがもと」だと言う事は、ただぶっすりがっすり言うと言う様な事だけでなくてです、本当に例えばいつも例えばんならテレビならテレビを見ると言うたら、もうあれがよい、これがよいよ取り合いをする様な事でなくてですたい、もう本当に誰かを中心にして、皆その気になれれる雰囲気と言うものが何時もなからなければいけないということ。中にね、ワンマンな者がおってです。
いや是がええと言うてその、ああして他の者を強引に押さえつけると言った様な事は、是はいけませんですけれどもです、ね。そこんにき私は譲り合いというかね、もうとにかく、例えばなら野球なら野球と言うたらその、皆面白い雰囲気が出来なきゃ出来ないということ。お芝居ちゅうたらその、お芝居で皆面白く見れれる雰囲気を、例えばつくらなければいけない。
まあ例えて言うなら私はお芝居が好きですから、なら子供たちまでお芝居が好きになる雰囲気がです、家庭の中にできないといけんて。亭主の好きな赤えぼしと申しますよね。亭主が好きなら家内もやっぱりそれが好きになる精進、努力をしなければいけないて。僕んところのお父さんは、道楽でつつじをしよんなさるち、なら栄四郎君ならどげん言うやろうか、家のお父さんな道楽で信心どんしよんなさるっち(笑)、ね。
だからお父さんの信心が本当に道楽ならです、皆が信心にならなければですね、さあ信心になるぞと言うたって揃わんのです、ね。私はね家庭に不和のなきがもとと言う事をですねそういうふうに、今日は私は感じました、ね。信心とは有り難くなる稽古をどんなに皆がなら、ばらばらでしとったんでは駄目だと言う事。同じ線に沿うてね。同じ線に沿うてから例えばですならお父さんが今、どう言う様な心配をしよるか。
お母さんがどういう、今心配があるかって分からんから、自分の心も分からんでと言う事になって来るのですよね。ですから本当にそれがんならその心配事があるならばその心配事を分け合得れる様な雰囲気をがですね、なからなければ私はもうそれは不和のあるも同じ事。ただぶっすりがっすり言わんからというだけじゃない。どう言う様な事でも親子で話し合えれる。
私のあたりなんか、家内と豊美なんかで話しよりますと、もうあんたと話すと喧嘩じゃけんでもう話さん。もうこう言う様な事ではですね、有り難いものが交流する筈がないです。お互いに理解し合うと努めないのです。あんた普通の話でもあんたと話しよるともう腹ん立つ。あんたと話すともう喧嘩になる。もうこう言う事でです有り難いものが育つ筈がないです、ね。
かと言うて今朝方の御理解のようにです、ね、子供が馬鹿なら馬鹿でもあんたげん息子は馬鹿じゃなと言われても、おかげで信心ができますというところまでですね、信心が進めばまた別ですよ。けれどもお互いそこまでいくために、一生懸命苦労しておるのですから、ね、なるほど「信心には家庭に不和のなきがもと」と仰るが、どのような些細なことでもです、どんな困ったことでもです、ね。
例えば子供が親に訴えられるというか、お話し合いができれるような、子供だって、子供のやっぱり心配事があることがあろうと思う。それを家の親にだって言やあ、喧嘩じゃから、というようなことではですね、言えれる、私は親子家庭、それでこそ私教祖が仰る「信心には家庭に不和のなきがもと」と仰る、そういうことだと思う、ね。ばらばらでは持ち上がらんぞと仰るが。
例え一家中の者が信心しておっても、そういう意味合いにおいて、信心がばらばらであったらです、さあお父さんもう何時ですよ、夜の御祈念ですよ。さあ早よ用意しなさらんかと例えばです、ね、子供が家内がです例えばんなら夜の御祈念、久富さんが毎晩参ってみえるが同じならあちら国雄さん、息子も信心すりゃあ家内も熱心に信心するのです。それもあれもすっと人より早締めに早よ、足洗うてからお参りしよる。
そげんあんたもう片付けちから行って下さいっち、例えば言うならもう信心不和のあるのと同じことでしょうが。どんなに中心が信心になろうと思うたってなれないです。もうよかこれは私共しとくけん、早よさあどうぞというような雰囲気があってこそです、なら頼むぞと言うて私出て来られるとこう思うんですよね。私は信心に家庭に不和のなきがもとということを本当にあのう、浅い意味で頂いておった。
もとというのが二つあるね。何をするにも体がもとと仰る。何を信心する信心するには家庭に不和のないことがもととこう仰る、私はそのもとの二つのもとをです、私共簡単にその考えとったけど、今日はそれを私本当に深刻に考えてみたんです、ね。そしたら結論として頂きましたことがです、何故不和があってはいけないかと。何故そういう有り難い雰囲気が銘々の心の中に交流しておらなければいけないかと言う事がです。
成程お酒でもですね。心の中に引っ掛る事が有ったり心配があったり、不安な事があったりしたら、酔えないのと同じ事で有り難くはなれないと言う事。それこそ二合でも酔わん人でも気分のよか時には一合で酔うようにですね、有り難くなれれる雰囲気をです、家庭の者がこうやって、本当に何時もその事をお互いにですね、祈り合うていくというか、精進し合うていく、努力し合うていくと言う様な、私は精進もまた必要じゃなかかとこう、今日はしみじみ思いましたですね。
どうぞ。